図書館と祖父

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エッセイ

私は子どもの頃から本が好きだ。

そう言えるようになったのは大人になってからのように思う。

小学生にあがったときは当たり前だが、学校に図書室があることに感動したし、育った街が田舎なので特に目新しい娯楽もなく、暇があれば本屋さんにつれていってもらい、親の買い物や用事が終わるまで1時間くらい平気で待っていられた。

小説や漫画、雑誌、全てが私にとっては非日常を味わわせてくれる世界だった。なので、将来は街の本屋さんで働いてみたいというささやかな夢もある。

只、本から離れていた時期もある。中学生、高校生の思春期頃は部活もやっていたり、物理的に忙しく余裕がなかったこと、何より本を読む奴=暗いやつだと思われるのではないかという恐れを抱いていたことも大きかった。

しかし、本のある空間はやはり落ち着くので、テスト勉強をするために図書館に行ったり、そのついでに本を読んだり、ということはあった。18歳で上京してからの学生時代も、図書館に行ってテスト勉強をしたりすることがあったが、それが今までも普通であることを友人に話すと、「図書館なんて余計に集中できない。」、「図書館にそんなに長くいられない。」、「ひとりで昔から図書館に昔から行く習慣があるなんてすごいね。」という反応があって驚いた。そのころには私もすっかり自己が確率していたので、傷つくことは全くなく、”そうか、実は物心ついたころには図書館にひとりで行き、読みたい本を見つけては時間を忘れて読み耽る、そんな習慣があることは少数派だったのか”と納得した。

育ってきた環境により、自然に触れるものは様々だと思うが、うちでいうと、それが本だったのだろう。

しかしそれは父でも母の影響でもない。父の一番の興味の矛先は野球であるし、母も根っからの体育会系なので本というものは彼らの周りでみたことは私が20代後半まで見なかった。(のちに母が読んだ小説が数冊リビングに置いてあって驚いた!)

私の身近で最も本を読んでいたのは祖父だった。

祖父母の家は自宅から近く、子供の頃からよく泊まりにいくことも多かった。寡黙で厳格な祖父と会話でコミュニケーションを取ることは回数こそ少なかったが、私には優しく、かわいがってもらっていた。私が泊まりに行ったときにも、みんなが寝てから小さなスタンドライトを枕元において、ひとり静かに本を読んで寝転がっている姿が今でも祖父のイメージとして最初にでてくる姿だ。

そんな祖父の本棚には難しそうな本だらけで、当時の私には(たぶん今も)読みたい、と思えるような本はなく、共有はできなかったが、祖父母の家から歩いて5分ほどのところに市内ではそこそこ広くて新しい図書館があり、そこに連れていってもらうことも多くあった。「図書館」というと今でも私の中の基準となる図書館はそこだ。

祖父と私の共通の趣味は「本を読むこと、本が好きなこと」。

30代の今になって思うと、それはとても貴重な共通点だったなあ、と思う。

寡黙で気難しい一面も見てきたからこそ苦手意識もあったが、祖父に影響を受け、意図せず後を追っていたことも多かったように思う。そして紛れもなく、祖父の後を追って始めた全てのことから得た知識が、経験が、今の私を作っていると思うとなんだか感慨深く感じる。

今はもう亡くなってしまったから、祖父と思い出話しをすることはできないが、次に帰省したときにはあの図書館に行ってみようか、なんて何十年か振りに思っている。

ふと、図書館からのインスピレーションで祖父との思い出が蘇ってきたのだが、きっかけになったのが辻村深月先生の『図書室で暮らしたい』を読み返したことだ。

図書館や図書室メインの小説ではないのだが、辻村先生の本に対する想いが感じられるエッセイなので、思わず私も本がすきだなあ、というシンプルな気持ちに気がつくことができる。何回も読んでいるのに、何回目かで新たな気付きや、今回記事にしたような思い出に触れさせてくれることがあるからやっぱり本は素敵である。


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